ダイアリー

光風では、メンバーの情報共有のために、各人が日報や日記をイントラネットにアップしています。我々がどんなことを考えて、どんなふうに仕事をしているか、その一部をご紹介します。

◾️2024月8日 「松山英樹について」

昨日の夜から腹の具合が芳しくなく、夜中にも何度も目が覚めてあまり眠れない中で、目が覚めるたびに米プロゴルフの松山英樹の途中経過(速報)を見つつ、耐え忍んだ末の優勝に寝不足を吹き飛ばす爽快な気持ちで起床。

 どうせ他に語る相手も場所もないので、松山のすごさをここで好き勝手語らせてもらうと、まず、分かりやすいところだと何より賞金がすごい。

今シーズン2勝目で、今年の獲得賞金総額は約1100万ドル(約16億円)。米ツアーは今シーズン残り2試合で、そもそも今回優勝した大会もそれまでの年間ポイントランキングで上位70位に入っていないと出られないエリート大会だから(残り2試合も、上位50位、30位しか出られないエリート大会)、更なる上積みをすることは確実で、おそらく今シーズンの年間賞金総額は20億に達すると思われる(ちなみに、これでも米ツアーの賞金ランキング3位。トップは松山の2.5倍くらい稼いでる)。

日本の男子プロゴルフツアーの全大会をすべて合わせた賞金総額(優勝賞金だけじゃなく、全大会の全選手に支払われる賞金の総額)は約50億だから、松山は一人でその半分弱をアメリカで稼いでいる計算。すごすぎる。

そして、実績もすごい。

今大会の優勝で世界ランク6位に上がってきたけど、世界のトップ10はマジで化け物クラス。参考までに日本人の中で、世界ランク2番手は今年から米ツアーで戦っていた久常涼という選手で、77位。日本で有名な石川遼は、トップ200に入っていない。

ゴルフは世界ではたくさんプロのツアーがあるけど、大きいのはアメリカツアーとヨーロピアンツアーの2つ(日本ツアーとかもあるけど、規模としてはアメリカツアーの10分の1以下)で、中でもアメリカツアーはダントツで、アメリカツアーの有力選手がヨーロピアンツアーにスポットで参戦して年間チャンピオンになってしまうくらいだから、実質的にはアメリカツアーが世界一を決めるツアーとなる。その中で「ツアーファイナル」という年間を通じてトップ30の選手しか出られない大会に、松山は一昨年まで確か9年連続で出ていた。昨年は怪我の影響でわずかに及ばず出られなかったけど、今年で10回目は確実で、ここまで連続して出場できていたのは松山ともう一人の選手しかいないくらい。日本では全然報道されないけど、実はこれはとんでもないこと。

ということで、パリオリンピックで銅メダルとって最近名前だけ知ったという人もいるかと思うけど、松山英樹のすごさはワールドクラスでマジで半端ない。

 国際的なスポーツ選手だと、やっぱりその競技の競技人口というか、地域的なレベルでの選手層の厚みがどのくらいあるのかというので大きく違う。

私は野球も大好きで大谷翔平は日本では超トップアスリートとして報道されるけど、世界規模でみるとやっぱり野球はマイナースポーツの域を出ない(もちろん、それでもすごいことには変わらないんだけど)。

そういう意味だと、松山以外にはやっぱりテニスの錦織圭とか、ボクシングの井上尚弥とか、F1の角田裕毅とかは、あの層の厚みの中で抜きん出てきていてすごさのレベルが違う。あと、最近はサッカー選手も欧州のトップリーグのトップチームにたくさん移籍しているけど、それもすごいことだ。

ということで、途中から何を言っているのかわからなくなったけど、起床時の気分は最高でしたという話でした。

◾️〇月〇日「騒音に揉まれたウェブセミナー」

 今日の午前中は、とあるメーカーの従業員に向けたウェブ配信のセミナーだった。

その後に、神戸での裁判期日が入っており、新幹線での移動時間を考えると事務所でセミナー配信をしていては間に合わないので、朝7時頃の新幹線で10時に神戸に入り、最近増えてきた駅施設内のボックス型のワークスペースを借りて(昔の電話ボックスみたいな形)、そこでパソコンを開いて喋り、ウェブ配信セミナー実施することにした。

個室タイプのワークスペースなのだから喋る分には問題ないだろうと思いきや、とんでもなかった。駅施設内の人通りの多い場所にボックスがあったせいもあり(しかも朝の人の多い時間帯)、ちょうどもたれかかるのに適当な位置にあるようで通行人がボックスに寄りかかってくるのだが、そうするとボックスの囲いが柔らかいせいで、ギシ・ギシと音が鳴り揺れる、館内放送で、「〇〇線の電車が遅延したことを、お詫び申し上げます!」といった大音響の放送がボックス内にも響いてくる。

それがようやく終わったとホッとするやいなや、今度は駅構内の清掃の人が、床のあたりをチリトリを当ててガシガシ音を立てながら掃き掃除をしていてその音が中まで響く…といった感じで、何かあるごとに音や振動や物影が気になって仕方なかった。

特に、音については、ウェブセミナーでこちらがマイクオンにして話している途中なので、駅の館内放送が音声に入ってしまってはまずいと焦り、そのような雑音が鳴り始めるたびに、それをかき消さんばかりの勢いで「良いですか!皆さん!」とこちらも大絶叫で呼びかける始末。「皆さん、ここがポイントです!」などと、何度も声を張り上げて話をしたので、とても疲れた…。受講者も今日のセミナー講師はやたらポイントが多いなあと首を傾げたはず。

人の多い駅や時間帯で、このタイプのワークスペースはセミナーをするときは要注意です。

ただ、こういう負荷がかかった方がなぜかうまく話せるもので、この日も主催者から受講者の評価が高かったと嬉しいコメントをもらえた。

◾️○月○日「同僚の考察」

 今日は斎藤先生の行動から読み取れるアーティスト性について日記を書きたい。

斎藤先生と一緒に行動していてよく起こること。

・斎藤先生と一緒に打ち合わせに入ったときに、お客様を事務所の打ち合わせ室でお迎えして、席に案内し、自分たちも席に戻ろうとした際に、斎藤先生はお客様と話をしながら後ろ手でドアを閉めようとするが、話に夢中でふわっと閉じかけるくらいで閉まりきらないで中途半端にドアが開いたまま打ち合わせがスタートしそうになる(その際、自分はさりげなく、パタパタと速足で歩いて行ってドアをさっと閉じて席に着く。)

・お店で食事をした際に、斎藤先生の近くにある醤油とかの卓上調味料を取ってくれと声をかけると、さっと取って渡してくれるが、大体違うものが出てくる(この前は胡椒をお願いして爪楊枝が出てきた)。

 これらの出来事を通じて、なんとなく、斎藤先生は松田先生と似ていると感じた。いや、松田先生は嫌がるかもしれませんが、意外と似てます。

松田先生も、ペットボトルの蓋がゆるゆるで全然閉まっていなかったり、携帯がどこにあるか分からなくなったり(大体カバンの中とか身近なところから出てくる)、そういうことが良く起こるけれど、これらが起こるのは、話すことに100%注力していたり、何か食べたりしている中で別のことに意識をパッと中断させられたりするときに起こるのではなかろうか。

イメージとしては、他の人は100の脳の容量の中で、会話に集中していても90とかにとどまり残りの10は周囲のことに無意識にアンテナを張っているのだが、松田先生や斎藤先生は何か一つのことに驚異的な集中力(100分の120)を発揮するが故に、他のことへの意識がゼロになるという、アーティスト性(天才ともいう)から来るバランスの偏りなのではなかろうか、と思った。

◾️ ○月○日「僕の就活日記」

今日は普段と趣向を変えて、僕の法律事務所の就活について書こうと思う。

 5月に司法試験を受験した。

企業法務系の事務所に行きたかった僕は、合格発表を待たずに、必ず合格していると確信を持って、張り切って試験終了の翌日から就職活動をスタートさせた。

 当時、司法試験の合格発表を待たずに早々に採用活動を開始する法律事務所は、弁護士が数百人規模の5大法律事務所、外資系法律事務所、大江橋等の関西4大の一部、桃尾松尾難波や岩田合同等の名門の企業法務系法律事務所のほか、ホームページ集客で有名なアディーレ、ベリーベスト等がメインで、それ以外の一般の法律事務所はこの時点では、まだ採用活動を開始していなかった。

ちなみにこれは10年ほど前の話で、今では、もっと法律事務所側の内定決定時期は早まり、予備試験合格者やロースクール生を対象にしたサマークラーク、ウィンタークラークをやる法律事務所が増えている。司法試験合格前どころか、受験前に早々に内定を出すような事務所も増えており、人材確保の競争は激しさを増している感がある。

大学別で言うと、僕の所属していたロースクールだとGPAが司法試験の合格ライン(上位3割)で英語もできないとなると、アディーレやベリーベストは別として、合格発表前の早い時期に募集をかけてくる名門事務所には受からないし、そもそも面接にも呼ばれない。とはいえ、受けないのは後悔するだろうし、落ちても経験にはなるということで履歴書は出せるだけすべて出した。

あとは、ロースクールでマナー研修(部屋の入り方や名刺の渡し方)を受けたり、一対一で、面接の練習をしてもらったりした。

予想通り、履歴書を出した先から、ボコボコ景気良く落とされながら、たまに呼ばれた面接を経験して、履歴書や面接での応対を少しずつブラッシュアップさせ、8月の終わりころになるとようやく一次面接を突破して、2次次面接にも進めところが出始めた。とはいっても、内定まではとれないのだが、それまで履歴書で落とされたり、一次面接で落とされることばかりだったので(だいたい9月中旬の合格発表までに30箇所ぐらい落ちていた)、自分の中では良くなっている手応えを感じていた。

 当時は、予備試験合格者や名門の東大、一橋ローでも司法試験の合格発表時に内定をもらっている人は4割ぐらいだったので、内定が取れなくても全く焦らなかった。30もの法律事務所に履歴書を送ったのはやりすぎだったけれども、合格発表までにいろいろ経験できてよかったぐらいに呑気に構えていた

そして、9月の合格発表では、無事に合格。予想通りだったのでそれほど喜びはなく、安心したという感じだった。ちなみに僕の時代は、合格発表の後に司法試験の順位を重視する老舗の企業法務系の事務所が採用活動をスタートさせ、それに釣られるように多くの法律事務所も募集を開始していた。

当時は、12月から司法修習が始まり、和光の研修所で一斉に授業受ける導入修習が始まり、1月から全国各地に配置され、地方での修習となるので、合格発表から3ヶ月半の12月までが、僕のような関東圏での就職を希望する者にとっては勝負の期間となる。

司法試験には無事受かったものの、合格順位は平凡だったので、順位で抜きん出ることも難しかった。

そこで、戦略を練った。僕のロースクールや合格順位では、都内での有名企業法務系の事務所は難しいだろうと思い、福岡、水戸、前橋、千葉、さいたま、横浜といった優良企業のクライアントを抱える手堅い事務所にも対象を広げて、履歴書送り始めた。法律事務所の勤務が第一希望だったが、インハウスで日銀など大手の銀行にも応募した。

合格発表前に就活の訓練したのが効いたのか、2次面接・3次面接にも進めるようになってきたが、なかなか最後の内定がもらえず、11月に入ってくると、周りの同期の就職先がかなり決まってきて、僕も焦るようになってきた。

ロースクールやサークルのゼミで司法試験の指導してくれた先生が「合格祝賀会」をやってくれたが、当時の僕は就活の疲れや焦りでかなり顔色が悪かったらしい(その先生は「試験に落ちた人を励ます会」もやっていたが、自分は試験に落ちた人より顔が死んでいたらしい)。そりゃ、就活で断られた回数も60の大台に乗ってくるとなれば顔も死んでくる。

 その頃、光風法律事務所の募集が弁護士会の求人サイトに出ているのも見て、ここいいなぁと思ったが、クライアントが大企業がメインなので、自分では受かる確率は低いだろうと思った。地方に修習に行く前になんとか就職先を決めたかったので、より受かりそうなところを優先して面接をしているうちに、案の定、採用がすぐに決まったようで、光風の募集要項は消えていた。

落ちた事務所が70を越えてきたところで、年明けに地方に赴任する前に、ようやく一つ内定が出た。関東圏の企業法務系の事務所で、上場企業から中小企業まで手広く顧問をしており、行政の顧問や、地元の名士の顧問もしていて、公取や査察などへの対応もあるらしく、自分がやりたい仕事と合っていたので、頑張った甲斐があったと嬉しかった。しかし、ある事情あり、その事務所には就職しないこととなり、再度、就活を始めることになる。

僕の就活は終わらない(後編につづく)。

◾️○月○日 「顧問契約の終了」

あるクライアントが、本社のある九州から常務がわざわざ社長のお手紙を携えて、顧問契約終了を伝えに上京し、事務所に来てくれた。

前々から会社の財務状況が相当厳しいことは聞いていたし、顧問終了は仕方がないと思っていたところがあった。

確かに常務のご説明でも、社長のお手紙でも、ありとあらゆるコストカットを実施している状況からも、我々を顧問として抱えている場合じゃないので仕方ないという思いは改めて強くなった。しかし同時に、よくよく常務のお話を聞くと、別の地元の顧問の先生には、労務案件を中心に相談していてそちらとの顧問契約は継続している。我々の専門分野である普通借家テナントの法律問題も発生しているものの、現場の担当者が「こんなことを東京の弁護士に聞いて良いのか」という躊躇や距離感があり、それが同じく受動的で相談を待つという姿勢の我々と悪い意味でかみ合ってしまったということがわかってきた。もし相談がしばらくない段階で、例えばこちらからオンラインでの法律相談会を持ち掛けていれば、現場から実は‥と色々な相談があったはずだし、そういった積極的なアクションをとっていればこのタイミングで顧問終了という話はなかったということを、痛感した。

この会社とは、2年前に大きな法律問題が発生し、常務や他の担当者と二人三脚で全力で当たり、解決できた経緯がある。この案件を通じて光風を心から信頼してくれていたことが伝わり、常務自身も顧問の継続に尽力したものの結論は変わらず、本当に申し訳なさそうに「力及ばず…」と謝っておられた様子を見て、これだけの思いと苦労をして締結した顧問契約を、このような形で失ったという事実に初めて直面し、なんとも情けない、苦しい気持ちになり、その後の会食の席でもしばらく料理の味がわからなかった。我々がもっともっと役に立てる場面があったはずなのに、事務所の価値を出し切れなかった。

 相談を待つのではなく、こちらから積極的に働きかけ、提案をすることの重要性が今回のことで腑に染みた。

■ 2024年3月「父と似てきたと感じる時」

声が大きいと周りからよく言われる私。

昨日は両親が上京して、手作りのキムチを東京の取引先のお店に届けるのに私も付き合った(両親は地方で小さな焼肉店を開いている)。

お昼は父のリクエストで東京の寿司屋へ。テーブル席で、私の前に父が座り、他愛もない会話をしているのだが、とにかく父の声がでかい。

「大きな声で言えないけどさ」、「ここだけの話だけどな、こんなことがあったんだよ」という父の言葉に周りのお客さんがこちらを二度見するくらい、声が店内に響き渡る。そして、ギャハハと腹の底から笑う。 

それを見て、あぁ、周りが普段、私に感じていることはこういうことだったのかと実感し、反省した。確かに周りの目が気になる。申し訳ないと肩身が狭い。ただ、うるさいとは感じない。むしろ、なんだか父のデカ声からパワーをもらえるような爽快感が湧いてきて不思議な感覚。父から好奇心、感じたことをそのまま口にする率直さ、東京の人にはないエネルギーが立ち上がっている。

食事が終わり会計、機械にスマホをかざして、電子決済。

機械から、「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」と電子音が流れる。

それを見て父が「東京の店は、店員さんが最後に挨拶しないのか、つめてぇな、こんにゃろ(「このやろう」の略である。)」と、すかさずツッコむ。この声はこれまでに増して特大である。後ろに並ぶお客さんも笑っている。 

父は70近いが、年々声が大きくなり、エネルギー量が強くなっている。

私も年々声が大きくなっている。入所した当時は普通だったのに、今や、私が電話で気合いを入れて話していると、隣の席の同僚は、私が座ってる方の耳を手で塞いで仕事をしている始末だ。

後輩からも私が横にきて喋ってるとパチンコ屋の騒音の中にいた時のように耳がキーンとしますとぼやかれる。

でも、同時に、メンバーは私と話してると気が晴れると言ってくれる。うるさいというだけでなく、私の個性も認めてくれている。 だから私も注意されるとすぐにごめんごめんとすぐに声を小さくする。

父と久しぶりに会って、良いところも困ったところも漏れなく受け継いでいるなぁと思った。

私が、昔憧れたような、スマートで抑制の効いた人間になることはないだろう。その代わりエネルギーに溢れて、よく笑い、人情家で、人が大好きな父のような人間に否応なくなっていくんだろう。でもそのことが、前ほど嫌ではなくなってる。

■ 4月18日「パチンコと私」

 私は今でこそ、周囲から真面目人間、慎重すぎると言われるが、学生時代はパチンコにドハマりし、親が見たら泣くような生活を送っていた。今日はその頃の話をしたい。

 大学卒業シーズン、皆が社会人となって飛び立っていく中、私は弁護士を目指し、ロースクールを受験していた。

 本命だったロースクールに落ち、最後の望みの綱だったとあるロースクールの受験日までは、ここまで勉強したことがないというほど、毎日図書館に通い、図書館が閉館するまで、一心不乱に法律に打ち込んだ。

 そんなある日、「これだけ頑張ったから、少しはリラックスしないと逆に頭にも良くない」と甘い悪魔の囁きが聞こえてきて、図書館帰りに、封印してきたパチンコ屋にふらふらっと寄ってしまった。

 単なる気晴らしという軽い気持ちのせいか、普段なら台を変えるタイミングでも、その時はおおらかな気持ちで、よかよかと打ち続けていたところ、突然、「フィンフィンフィンフィン」と、激しいライトの演出とともに、どの世界にも存在しない唯一無二のなんとも耳に心地よい快楽音が鳴り響いた。

 そこからは閉店まで、出るわ出るわ、通路いっぱいの山積みのドル箱が積み上がった。

 ここから落ちるまでは早かった。

 毎日図書館には行くものの、夕方が近づくと、今日はどの台を打とうかなとソワソワし始める。文字が頭に入ってこなくなる。

 そして、4時を回るや、図書館を飛び出てパチンコ屋に入り浸るのが日常になった。

 そんな生活が続き、暗い気持ちで本命の最後のロースクールの試験前日を迎えた。ここ落ちたら、もう後はない。仕送りも絶たれ、就職も決まっていない自分の未来はない。

 さすがに、この日はパチンコなんかせず、ギリギリまで教科書や問題集を読んで、早く寝て明日の試験に備えようと、朝起きたら時点では迷いなく決心していた。当然だ。

 しかし、図書館で勉強していた午後3時頃、突然「フィンフィンフィンフィン」との快楽音が頭に鳴り響いてきた。もちろん、図書館にパチンコ台があるはずなく、完全な空耳だ。だが、確かに私の耳にははっきりとあの音が聞こえてきたのだ。

 その音を聞いた私は、「試験前日に詰め込んでも意味はない、むしろ、これまでの知識に混乱をもたらすだけだ」と都合のよい言い訳をこねくりだし、ころっと決心を覆すや否や、すぐにパチンコ屋に駆け出すように向かった。

 試験前日の日にパチンコ(当時、花の慶次と海物語しか打たないと決めていた。)を打ち始める。最初はギンギンになって、前のめりに画面を見ていたが、なかなか当たりが出ず、徐々に冷静になってきた。

 冷静になってくると明日の試験を思い出し、試験の時間を再確認しようとネットで試験概要を検索した。その瞬間、現実が一気に押し寄せ、体を冷気が襲い、明日の試験に受からなかったらどうしようという猛烈な不安が込み上げてきた。

 しかし、ここまで2万円も投資しているのに、この台を他の奴らに譲りたくないとの訳のわからない執着に囚われ、どうしても止めることができない。

 受からなかったらどうしようという恐怖と、このままパチンコを続けたい!という相反するどちらも強烈な気持ちにもみくちゃに苛まれ、何を思ったか私が選択した行動は、両方を取る!パチンコを打ちながらも試験勉強はする!という訳のわからない行動だった。

 やおらリュックから受験生にとって聖書と言われている民法の基本書「ダットサン」を取り出し、膝に開いてそれを読みながら、右手はパチンコのレバーを回すというスタイルに行き着いた。

 当然、全く頭にはダットサンの内容は入ってこない。いつ快楽音が鳴るのか、そこにしか意識は向かない。

 それでも、怖くてダットサンを閉じることはできず、レバーを回し続けた。

 その結果、確変が発動し、閉店の時間になっても出玉が止まらず、強制的に退出させられる。

 収支としては、+15万円だったことを覚えてる。閉店時刻に店を追い出された時の気持ちは、穴の底をのぞきこんでるような気持ちといったらいいだろうか。

 翌日、試験会場で憲法から取り組んでいた。唖然とした。一切知らない問題だった。

 詰んだ、終わったと思った。

 結果は補欠合格だった。

 その後、合格者の中から辞退者が思った以上に出て、繰り上がり合格となった。首の皮一枚でつながったわけだ。

 その後、ロースクールで最高の友人と出会い、その友人のおかげで切磋琢磨して、道に逸れることなく司法試験に合格することができた。

 事務所の皆さん、私が酒の誘惑には負けてもパチンコだけはガンとして手を出さない理由を少しは理解して頂けたでしょうか?

 フィンフィンフィンフィンという世界のどこにもないあのパチンコ屋でだけで鳴り響く甘い甘い快楽音は、記憶の中に留め、決して現実で聞かないことを決めてるのです。

 お休みなさい。