引きこもり時代のバイトの話
私は大学卒業後、就職するのが嫌でデイトレをしながら貯金を切り崩しつつ生活していたが、あるとき生活費に不安を感じて、バイトを始めることにした。できるだけ人に会いたくなかったので、深夜の警備のアルバイトを選んだが、その時に出会ったMさんの話をしたい。
応募してすぐに採用された警備員の仕事は、都内の百貨店の閉店後の店舗フロアにお客さんが間違って入ってこないように入り口でひたすら立って見張っているだけの仕事だった。
半年ほど経ち、昼間はデイトレしながら夜は警備のバイトをするという生活に慣れてきた頃に、50代半ばくらいの、当時の自分にとっては父親ほどの年齢のMさんという男性がアルバイトで入社してきた。
Mさんはもともとはガラスにフィルムを貼るフィルム施工会社の社長だったが、その会社が立ち行かなくなって、従業員をみんな解雇し、家族を支えるためにこのバイトに応募してきたという経緯だった。Mさんは警備のバイトだけでなく、昔のツテを辿ってフィルム施工の下請けの仕事もしていた。
そのMさんから私は妙に気に入られて、「警備のバイトだけでなく、フィルム施工の仕事も一緒にやろう」と誘われて、フィルム施工の現場の仕事も手伝うようになった。
スウェットを着て、腰から重い道具袋をぶら下げて、夜中12時から活動を開始し、客のいなくなった店舗や、生徒のいない深夜の小学校などの窓ガラスに、地震などの災害時の飛散防止のための薄いフィルムを貼っていくという職人仕事は、手先を動かすことが好きな自分にとても合って、なかなか楽しかった。ミスなく薄いフィルムをきれいに貼り切れたときには、鼻歌を歌いたいような達成感があって、あまりやることがなく楽な警備の仕事よりも、体力的にはきついフィルム施工のバイトの方が楽しかった。
Mさんは中小零細企業の社長らしく、昔ながらの昭和風な価値観を押し付けてくるところがあり、好いてくれたMさんには申し訳なかったが、当時の私にとって実は結構苦手な相手だった。
Mさんの性格を一言で言うと、豪快で、不器用で、思い込みが強く、封建的で、女好き。
その頃の引きこもっていた自分には一番合わない価値観。
例えば、当時の百貨店での警備員のアルバイトには、勤務終了後の百貨店スタッフが通用口を出る際に店舗商品を持ち出していないかを確認するために、バッグを軽く開けてもらって確認するという業務があった。
そこでは、化粧品売り場の華やかな若い女性陣もたくさん通るのだが、Mさんは休憩時間中に「どの売り場の女性が好みだ?」みたいな話題を好み、話しかけてくる。そういった話が嫌いだった私が生返事を返すと、苛立って「こんな話に乗ってこねえお前は頭おかしいんじゃねえか!」などと罵ってきたことがあった。
ろくろく女性を見ていなかった私が(そもそも当時は人の顔をじっと見ることができなかった)、苦し紛れに「黒いスカートの女性がよかったですね」と適当なでまかせを言うと、そんなスカートを身につけていた女性などいなかったようで、仲間たちが口々に「どの売り場の制服だろう、そんな人いたか」と逆に論争となり、次の日からみんなで黒いスカートの女性を探し出して、やばいことになったなぁと辟易したことを覚えている。
また、Mさんには妻子がいて、とても家族思いにもかかわらず、マッチングアプリ(当時は「出会い系」)で駆け引きしながら最後は体の関係を持った話をしてきたりした。
あるときに相手と初めて会ってみると車椅子の女性で体が少し麻痺して傾いていて、「俺もそういう事は初めてでびっくりしたが、そのまま当初の予定通り、ホテルになだれ込み、全力で愛してとても良い一夜を過ごせた」などというような、どういう角度で聞いたらいいのかわからないような話をしてきた。
面倒見のいい人で、フィルム施工の仕事が終わるのは深夜も3時頃になるのだが、必ず仕事終わりの飲みに連れて行ってくれた。お目当ての店が空いていない時は、愛車の日産セレナを夜中の東京で走らせて、開いている店を探した。ある時、Mさんの馴染みのマスターがやっている池袋の店に行こうとなって、夜中3時ごろに飲みに行ったが、4000円の会計に「ぼったくりじゃねーか!」と怒りながらも(明らかに適正会計。というかむしろ割安)、奢ってくれた。
あの時はわからなかったが、息子ほどの歳の私と一緒に時給1000円のバイトをして家族を支えているのだから、奢るのも大変だったはずなのに、よく誘ってくれたなあと思う。人に対して熱がある人だった。
飲みながら、会社の社長時代にヤクザと揉めて最後まで突っ張った話や、会社が一番羽振りの良い時は10人近い従業員を雇っており、家族とのハワイ旅行も1番良いやつを選ばないでどうすんだ!とファーストクラスで往復して何百万もかけたことなどを楽しそうに話してくれた。
会社の経営がおかしくなったのは、本業のフィルム施工以外にカーワックスの新商品開発に乗り出したためなんだと話してくれ、とても良い商品を生み出せたが、すぐに大手メーカーにアイディアを真似されて大量の在庫を抱える羽目になり大赤字に陥ったと言っていた。
フィルム施工のバイトに自分が誘われた初めの頃は、Mさんは愛車のセレナで迎えに来てくれたが、どんどん車がボロくなっていた。最後には「車を買い換えたよ」と聞いたので、どんな車かとアパートで待っていると今までと全く違うけたたましいエンジン音がして、オンボロの軽トラでやって来たのには本当に驚いた。税金が払えなかったと悔しそうに、でも、堂々と話していた。
そんなMさんとも、私がロースクール入試に向けて両方のバイトも辞めたことで、1年程度で付き合いは終わった。
その後、ロースクールに入り、学生に戻って勉強に打ち込む毎日を送っていた頃に、警備会社のアルバイト仲間から突然電話がかかってきて、Mさんが亡くなったと知らされた。
アルバイトで一緒だった同僚たちとみんなでご自宅に訪問し、お線香をあげに行った。優しそうな奥さんが笑顔で迎えてくれたが、憔悴しきっていた。Mさんがよく話していた娘さんもまだ小学4年生で、言葉が出なかった。奥さんはMさんの最後の様子を話してくれた。
肺を悪くしてまっすぐ立てない状態だったのに警備のアルバイトには予定通り最後まで勤務を続けたこと、いよいよ動けなくなり入院して酸素吸入器を当てられたが最期の時は体に取り付けられた機器を手で振り払って息を引き取り、苦しみながら亡くなった最期だった、と聞かされた。
彼の人生を思うと、胸が詰まる。
会社を経営し、ハワイにファーストクラスで行くほどの絶頂期の時代から、50代半ばになってバイト生活に転落し、車は軽トラに変わり、それでも人生の再浮上を夢見ながら、家族を愛し、女性を愛し、バイト仲間の若造まで可愛がり、どんなに体調が悪くてもギリギリまで責任をもって勤め上げ、夢を叶える前に、家族を残して亡くなっていく。
人生とはこんなにままならないものだろうか、残酷だと当時は強く思った。
でも自分が彼の年齢に近づいてきた今は、Mさんほど紆余曲折を経て、酸いも甘いも味わい尽くした人はそうそういない、密度の濃い人生を生き切った人だと感じる
岩永 智士
